思春期
1964年、帯広市立第三中学校入学。

1年3組のクラスの副委員長となる。担任は国語科の遠藤智先生。美雪は積極的に詩を書き担任の先生に見せたらしい。

「『ケネディ』を読んで」という感想文が『雪原』という生徒会誌に掲載される。美雪はこの中で「彼の写真を見ていると、こうさけんでいるような気がします。『戦争をやめて、平和の道を探し求めましょう。白人も黒人も助け合って』」と書いたそうだ。

友人の誘いで陸上部に入る。友達の誘いとはいえ団体競技ではなく、個人競技を選んだところに独立した人格形成の一歩が感じられる。

二年生になると、5歳から続けていたピアノを止める。ピアノ教室に歩いて行くのに往復2時間もかかり、雪の深い日には3時間もかかったという。その荒修行を8年間も続けていたことに精神的な強さを見て取れる。止めた理由は受験勉強のためと後に語っている。

三年生でも副委員長に選ばれる。体育大会やクラス対抗の競技大会では常に中心的存在であった。成績もかなり良い方であった。後に進学する柏葉高校は帯広ではトップクラスの高校である。町内の子供会の会長も務め学校以外でも積極的な面を見せている。担任の先生の自宅に友達と遊びに行き、料理を作ったというエピソードがある。

この年の11月、母親は体調不良のため実家の山形へ美雪と弟と連れて帰る。一説には、眞一郎氏が看護師と不倫をしたので懲らしめに実家へ帰ったともいう。翌年2月、帯広へ帰る。

1967年、帯広柏葉高校入学。美雪は入学祝に両親からギターをプレゼントされる。『あなたも一週間でギターを弾ける』という教本を買って練習したが、「1週間どころか3年もかかっちゃったわ」とインタビューで述べている。実際には教本を諦めてレコードを聴きながら練習したらしい。そのため中島みゆきのアルペジオ奏法は今でも変則的である。放課後よくひとりでギターを弾きながら歌っていたらしい。当時のフォーク・シンガーが誰しもコピーしたPPM(ピーター・ポール&マリー)を美雪も歌っていた。

二年生になると体操部を発足する。目が悪いので教室では一番前の真ん中の席に座っていた。得意な科目は英語、苦手は数学であったらしい。

三年生になると選択科目があり、書道・音楽・美術のうち音楽を選択する。この年の秋、中島みゆき誕生の礎石をなる事件が起きる。

美雪はこの頃、学校へは余り行かなかったらしい。帯広川の土手でひとり物思いにふけっている時間のほうが多かったそうだ。高校3年の時には、精神的にかなり参ってきた。「自分なんかいなくてもいいんじゃないか、自分はこの世に必要のない人間ではないのか」とさえ思い詰めたと故こすぎじゅんいち氏との対談で語っている。

青春の真っ只中にいるとき、孤独感から「自分なんかいても仕方がないんではないのか」と思うことはままある。しかし、この二つは180度違う。後者は生存を前提としているが、美雪の場合「生存否定」から始まっている。

しかし美雪は自殺という手段を選ばず、文化祭のステージに一人で上がり歌うという行動を取った。 もし、自分が本当に要らない人間なら、中島みゆき曰く「石でも飛んでくるだろうし、みんな帰ってしまうだろう」と覚悟したとインタビューで語っている。

柏葉高校はもともと男子校だったので、自治会も男子が仕切っていた。その自治会室のドアを開けたときの男子生徒の目は今でも覚えていると、その対談の中で述べている。「女が何しに来た!」と言わんばかりの目つきだったそうだ。

文化祭当日、美雪は親に買ってもらったガットギターを弾きながら、数曲の歌を歌った。PPMやジョーン・バエズのコピーの中に美雪が作詞作曲した「鶫(つぐみ)の唄」という曲も交えた。鳥の立場で戦争のことを歌った作品である。

石は飛んでこないし誰も帰らなかった。それどころか、話したこともないエリート学生から「よかったよ」と褒められたそうである。
 
これをきっかけとして美雪は音楽の道へ進んでゆくこととなる。