青年期
1970年、札幌藤女子大学国文科入学。同大学はカトリック系の大学で、「キリスト教的世界観や人間観を土台として、女性の全人的高等教育を通して、広く人類社会に対する愛と奉仕に生きる高い知性と豊かな人間性を備えた女性の育成」を理念としています。

この大学を選んだ理由として中島みゆきは柏葉高校の卒業生がいなかったからとインタビューで答えています。しがらみから解き放たれて新しい道を歩もうとした姿勢が見て取れます。

大学時代、美雪ははつらつとした生活を送ります。大学では放送研究会に入部するとともに北海道大学のフォーク研究会にも入り浸ります。毎晩のように酒を酌み交わし、昼間は授業にも出席せず寮で寝ていたそうです。知人が訪ねてきても寮長は「どうせ寝てるからダメだよ」と追い返すほどでした。

1971年から72年にかけて地元SYVラジオ番組にアマチュア・シンガーとして出演。また、DJのアシスタントも務めました。この頃の美雪は既に札幌では「コンサート荒らし」「コンサートの女王」と呼ばれていました。

1972年冬、札幌冬季オリンピックが開催されると会場の雪かきのアルバイトもします。朝日が昇る前、迎えのバスを凍えながら待ち、いてつく寒さの中で観客席に積もった雪を取り除くという忍耐と根性が必要とされる仕事に黙々と励んだそうです。もらったアルバイト代で美雪はフォークギターを買ったそうです。

1972年5月28日、ニッポン放送主催「全国フォーク音楽祭全国大会」に北海道代表として出場。アコースティックギター1本で『あたし時々おもうの』を歌います。審査はもめて4組にグランプリが与えられました。その中に美雪の名前もありました。

プロ・デビューの誘いがあったのですが美雪は断ります。それは課題曲であった谷川俊太郎氏の『私が歌う理由(わけ)』の詩に衝撃を受けたからです。「私にとって歌とは何か」という根源的な問いに答えられないまま、プロとして歌ってゆくことはできなかったのです。「コンサート荒らし」「コンサートの女王」とおだて挙げられた天狗の鼻がへし折られました。

4年になっても卒業論文のテーマが決まっていなかった美雪は、やむを得ず一番好きな詩人の谷川俊太郎氏を選びます。卒業論文題目提出用紙には「おだやかな変化をみせる谷川俊太郎のいくつかの作品群。その生命観の推察と、音の聞き取り」と記してあるそうです。

教職免許を取っていなかった美雪は、母校で実習を行います。しかし、国語の授業は行わず「あたしは将来シンガーソングライターになるつもり。実習に来たのは単位取得のため」と言って、教室でギターを弾き生徒に歌を聞かせたそうです。生徒には好評だったらしいのですが、校長からは「あなたは先生には向いていませんね」と告げられたそうです。