さだまさし(グレープ)
さだまさしの本名は佐田雅司で、産まれは長崎県長崎市で生年月日は1952年4月10日です。

佐田家は大地主で、さだまさしは3歳よりヴァイオリンを弾き始め、中学生からヴァイオリンの修行のため上京しました。

お金がなくなると、電話代節約のため「金、金、金」とだけと言って、家政婦が「お坊ちゃまから金の無心の電話がありました」と両親に伝えたという逸話があります。

グレープは1972年にさだまさし(ヴァイオリン、ヴォーカル)、吉田正美(ギター)の二人で結成されました。

ファーストシングル「雪の朝」(1973年10月25日発売)は8000枚しか売れませんでした。セカンドシングル「精霊流し」(1974年4月25日発売)も当初の売り上げは芳しくありませんでしたが、東海ラジオの『ミッドナイト東海』の中でアナウンサーの蟹江篤子が毎週のように流し続け、これが助力となって全国的なヒット曲になりました(オリコン2位)。

グレープとしての活動期間は1976年までと短く、その間にシングル6枚、オリジナルアルバム3枚とライブアルバム1枚しかリリースしていません。

シングルでは「精霊流し」以上のヒット曲はなく、アルバムでは1975年11月25日に発売されたオリジナルアルバムでは最後の『コミュニケーション』が私は一番好きです。

このアルバムのオリコン最高位は7位です。

収録曲には、妻のどじを唄った「朝刊」、
東京都文京区湯島四丁目にある坂、無縁坂を舞台に、息子の年老いた母に対する想いを歌った「無縁坂」(「精霊流し」の次にヒットした曲となりますが、この曲のヒットから二人の音楽の方向性と聴衆からの要求との齟齬を感じて、解散のきっかけとなります)。
別れを告げようとして訪れた鎌倉市東慶寺を唄った「縁切寺」(「お願いここだけは 止してあなたとの 糸がもし切れたなら生きてゆけない」の歌詞が切ない)、ささやかな幸せを奪ってしまった戦争を唄った「フレディもしくは三教街ーロシア租界にてー」(ロシア租界とは漢口にあった旧ロシア領地で、さだまさしの母が1942年(当時17歳)から3年間過ごしたことを題材としています。)尚、このタイトルについては、ディレクターがさだ
まさしに電話で確認した際、「『フレディ』もしくは『三教街』にしようと思う」と答えたのをディレクターが「フレディもしくは三教街」と聞き違え、ミスのままタイトルがクレジットされてしまったという経緯があります。「精霊流し」、「無縁坂」とならんで今でもコンサートで取り上げられる、グレープ時代の一曲です。

さて、さだまさしはグレープ解散後、現在に至るまで精力的な活動をしています。

音楽活動のみならず、小説を書いたり、映画監督もしております。

シングルでは1977年に、雨やどりがきっかけで恋に落ち、結婚まで繋がる姿をコミカルに歌ったシングル「雨やどり」がオリコンシングルチャート1位になる大ヒットとなります。それまで一番売れた「精霊流し」でも最高同チャート2位であり、さだまさしにとってグレープ時代から通じて初めての首位獲得となりました。

1978年には7月にリリースした「関白宣言」は150万枚を超える大ヒットとなります。

アルバムは1976年11月25日にファーストアルバム『帰去来』をリリースします。あいにく私はこのアルバムは聞いたことがありません。

つづいて、1977年7月25日に『風見鶏』をリリースして、50万枚を越す大ヒットとなりオリコン1位を獲得しています。
大宰府天満宮を舞台にした「飛梅」、森山良子に提供した「セロ弾きのゴーシュ」、「雨やどり」の替え歌「もうひとつの雨やどり」(さだまさしは「雨やどり」がお笑いに染まって本質が見えなくなっている現状に、蛇足ながら答えを出してしまった」と曲紹介で述べています)、さだまさしには珍しいアップテンポな「吸殻の風景」、などが収録されています。

1978年3月25日には、サードアルバム『私花集』(アンソロジー)を発売し、これもオリコン1位を獲得しています。

梶井基次郎の小説『檸檬』をベースに、舞台を御茶ノ水に置き換えた「檸檬」、父親が我が子に対して「自分は昔魔法使いの弟子だった」と法螺を吹くコミカルな「魔法使いの弟子」、上京した息子を思いやる大ヒット曲の「案山子」、山口百恵に提唱した「秋桜」、公衆電話から別れを告げる恋人の声に耳を傾けている「加速度」、発表以来テレビやラジオで行われるファン投票ではいつも1位を獲得し、コンサートの最後に歌われる「主人公」など名曲揃いです。

私はこれ以降のささまさしは聴いていませんので、何とも言い難いのですが、ベストアルバムではないかと思っています。