学童期
1958年、岩内西小学校入学。

三、四年生の頃、合唱団に入っていたとあるインタビューで答えている。

「ふるさとなんてどこにもない。でも、五つの時から十一まで住んだ岩内の”赤灯台”とそこから見た日本海の荒波は強烈に覚えているワ」と『東京スポーツ新聞』の1976年4月30日号で語っている。

さらに、作家の村松友視氏との対談の中で「赤灯台」という名前の詩集が小学校で発行されていたことを語っている。

ここでの生活は美雪の精神形成に大きな影響を与えている。暗い日本海沿いの町で暮らしたことは、発表した歌の中に海をテーマにした歌が多いことでも見て取れる。

また、冬には列車が雪で不通になり、1週間くらい孤立した状態の時もあったらしい。こうした事情は中島みゆきの初期のイメージとして「暗い」といわれたことと大きな関係があると私は思う。


1963年、岩内から東に約200kmも離れた帯広に移り住む。美雪、11歳。

帯広駅から約1kmの線路沿いにある中島産婦人科は木造二階建てで、美雪はこの病院から帯広小学校へ通う。

この頃の美雪の将来の夢はスチュワーデスになること。卒業文集には「二十三歳で結婚、二十四歳で出産」と書いている。

あるインタビューで中島みゆきはスチュワーデスになる夢をあきらめたのは、地声のせいだったと話している。「とてもこんな声じゃ、スチュワーデス学校を卒業できそうもなかったしね。」と。

十勝平野