5枚目のアルバム『親愛なる者へ』というタイトルの中にも「愛」が含まれています。
しかも、「愛」ではなく「親愛」とした所に中島みゆきのファンへのメッセージが感じられます。
このアルバムは、それまでの中島みゆきのアルバムからは一転して斬新な曲が多いです。
1曲目の「裸足で走れ」で中島みゆきはこれまでにない張りのある声でファンへのメッセージを送っています。
2曲目の「タクシードライバー」の歌詞の中には「愛」という言葉はありませんが、タクシードライバーに対する愛情に満ちた歌詞になっています。
9枚目のアルバム『寒水魚』になってやっと、中島みゆきは「愛」を歌い始めます。
4曲目の名曲「捨てるほどの愛でいいから」ではタイトルに「愛」を付け、去ってゆく男にほんの少しでいいから「愛」を下さいと歌っています。
そして、これはもう中期に属しますが「たかが、愛」とまで歌っています。
中島みゆきの歌詞を紐解くキーワードとして「愛」を取り上げたのは、初期の「ふられ節」においても裏返せば男から「愛」が欲しいが得られないから、ふられた女の心情を歌っていたのだと推測しているかれです。
いつまでも「ふられ節」のレッテルを貼られることに抵抗を感じていたであろう中島みゆきは、「ふられ節」から脱却して「愛」を歌い始めます。
いや寧ろ、中島みゆきは「ふられ節」を歌いながら「ふられ節」を超えるテーマである「愛」について考察しており、自分なりの結論がでたので「愛」を歌う曲を発表し始めたのだと考えた方が自然と思えます。
といって、さすがの中島みゆきにも「愛」は深く重いテーマだったのでしょう。
このサイトで紹介したアルバムの最後まで、「ふられ節」が顔を覗かせています。
しかしその「ふられ節」の中身は、初期とは比べ物にならないくらい深化しています。
そしてついに、「たかが、愛」とまで言い切れる心境にたどり着いたのでしょう。
また、中島みゆきの「愛」を語る上で欠かせないのが中島みゆきが通った札幌藤女子大学がカトリック系大学であったということです。
以下に藤女子大学の「建学の理念」のURLを載せます。
http://www.fujijoshi.ac.jp/大学案内/理念と目的
この中に「キリスト教的世界観や人間観を土台として、女性の全人的高等教育を通して、広く人類社会に対する愛と奉仕に生きる高い知性と豊かな人間性を備えた女性の育成を使命とする。」とあります。
中島みゆきには大学時代からキリスト教的愛の素養があったわけです。
では何故中島みゆきは最初から「愛」を歌わなかったのでしょうか。
それは推測するに大学で教えられるカトリック系愛(自己犠牲的な愛情)をそのまま鵜呑みにすることができなかったのだと思います。
私事になりますが、大学時代私は新聞部に所属していたのですが部長の教えとして今でも鮮明に覚えていることがあります。
それは「全てを疑ってかかれ」というものでした。
部長が言うには、理論や理屈は自分ではない他人が作ったものだ。
それをそのまま信じていてもそれは「他人の褌で相撲を取る」ことにしか過ぎない。
疑ってあれこれ考えて自分なりの考えがもてればいいし、結局もとの理論や理屈が正しいと行き着いてもその時はその理論や理屈は他人のものではなく自分のものになっている、と。
中島みゆきも多分押し付けられる教義に反発を覚えていたのではないかと推測します。
そして、自分なりの考えを巡らした挙句結局その教義が正しいと納得したのではないでしょうか。
それを発表したのが『MEGAMI』です。
中島みゆきの歌詞へのアプローチはいろいろな側面からできます。
また、ファン一人一人が自分の生き様と照らし合わせて中島みゆきを理解しています。
しかし、中島みゆきは基本的には「愛」の求道者でありファンに対して「愛」を注いでいると私は思います。
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